美鶴の名前を出すと優輝が不機嫌になるので、里奈は口にはしないよう心掛けた。
だが優輝にはわかっていた。
なぜだ?
俺がこれほど欲しても、なぜ俺のモノにはならないのか?
美鶴に頼る自分を恥ながら、一方では異常なほど美鶴に縋り付く。
矛盾している。
弱い自分は美鶴に嫌われると思い込みながら、強くなろうとはせず、ただ美鶴にのみ執着する。それほどに里奈は弱く、情けなく、決して一人では生きていけない。
そんなコトはわかっている。だから優輝は全力で里奈を欲した。
なのにどうしても、大迫美鶴には勝てなかった。
いくら望んでも、自分の手の中には何も残らない。
どれもこれも、何一つ俺のモノにはならないのか?
「今更ながら、教えるけど」
声音は実に穏やか。
「里奈の鞄にチョコ放り込んだの、俺だよ」
同時に右足を思いっきり振り上げる。
蹴り飛ばされて、美鶴の身体は宙に浮いた。背中から傍の椅子に激突し、もろとも床に崩れる。
驚きに瞬きもできず、衝撃を受けた肺は呼吸することができない。息苦しさと痛みに目の前は真っ暗。当然、声なんて出せるワケがない。
「美鶴っ!」
叫びながら駆け寄ろうとする行く手に、青白い肌。
「さあ、里奈」
見下ろす顔は場にそぐわず、あまりに優しく穏やか過ぎる。逆に恐ろしくて悪寒が走る。
「昔話は終わりだよ」
ゆっくりと伸ばされる右手。避けようと後ずさりする左腕を鷲掴みにされ、思わず呻く。
「どうあっても、お前の中ではあの女が一番」
そっと背後を振り返る。
ようやく咳き込む、床の上の美鶴。
「なら俺が、消してやるよ」
「え?」
「俺がこの世から、お前の中からも消してやる」
そうしたら、もうお前は俺のモノだ。
美鶴?
ハッと息を呑み投げる視線の、駅舎の窓ガラスのその向こう。残暑にウダる木々の緑と、気休め程度に吹き抜ける風。公園の端を駆け回る子供。
この暑いのに、元気なコトで。
苦笑いしながら視線を動かす。
今、美鶴の声が聞こえたと思ったんだけど。
だが、ガラスの端々へ視線を動かしても、その姿は影もない。
空耳か?
腕時計は四時十分。
ちょっとおかしくないか?
首を捻る瑠駆真の姿に、聡の声が嫌味っぽい。
「半日、美鶴を独占する気じゃなかったのか?」
舌を打つ。
一向に姿を見せない美鶴。おかしいとは思う。
探しに行きたい。もう家に帰っているのかも。
鍵を開けたのが誰かなんて、そんなのは今はどうでもいい。とにかく美鶴がどこにいるのか。
だが聡の手前、心の動揺を悟られたくない。
コイツに嘲笑われるのが、一番腹立つ。
だからどうしても平静を装い、立ち上がることができないでいる。
もう少し、待ってみるか。
聡に背を向け、空を見上げる。
いい天気だな。
ガラスの向こうは、空高く晴天。
もうすぐ、秋の夕暮れが辺りを染める。
|